藪の眼には涙もでない

藪医者ヤブーのブログ 健康に関すること。独り言。 患者さんの話はフィクションです。

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真実の海角七号 「東洋新婦泉愛子のストーリー」 ライト氏のブログより

 昨日ライト氏のブログから、「真実の海角七号」を紹介した。
 その際に、去年何処かで拾った「泉愛子」の新聞記事を付けた。そのうちに翻訳してみたいと思っていたが、
 なんとライト氏が、昨晩より詳しい話を探し出して、御自身のブログに掲載してくれた。
 ヤブーの下手な翻訳より遥かに感動的なので、感謝しつつご紹介したい。

 



日本のおばあさん-東洋新婦泉愛子のストーリー
◎学問での出会いをきっかけにした、台湾の青年との恋

大正13年(1924年)に生まれ、日本の四国、愛媛県に住んでいた泉愛子は、14歳の時、進学のために故郷から離れて東京へ旅立った、東京で愛子は中野桃園女中、きくま助産女学校で学び、厚生省保健士学校を卒業した。先輩について学ぶかたわら、愛子は台湾府の高雄州林園庄の青年、黄振賢に英語を教えることとなった。時間が経ち、愛子と振賢の間には愛情が芽生え、二人は恋に落ちた。

◎日本のミス、愛のために異郷の台湾に来た

黄振賢は林園の上流階級の黄金鳳の長男である。16歳の時に、進学のため日本へ行った。大学は日軍研数兵軍学校の電機所である。泉愛子が台湾の青年、振賢と恋愛に落ちた。当時、日本人は考えが保守的で、自ら支配者と思っていた。日本の植民地である台湾の青年と、日本国籍の女性の恋愛するはとうてい認められてものではなかった。二人は、密かに結婚を決めました。泉愛子の家族はその事を知り、激しく怒って反対した。しかし、二人の愛情が動揺することはなく、両親家族の反対や怒りも無視し、二人は一生お互いに頼り合い、ずっと一緒にいようという思いをかためえした。そして、愛子は密かに家出し、振賢と京都の地裁でささやかな公証の結婚式を開いた。その時、愛子は21歳(昭和19年)であった。夫に付き従って、結婚をしたことを台湾では 「私奔」と言う。

昭和20年、(1946)、愛子は夫振賢と一緒に、振賢の生まれ故郷である、台湾の高雄県林園郷に定住した。諺では「夫唱婦随」と言われるものである。その時、愛子は23歳、もう60年前の話である。

愛子は結婚式に着た着物を大切に保存している。着物以外にも、和式のドレスを10枚に保存している。愛子の思い出は以下のようなものえある。夫について台湾に来た時、台湾は中国に変換されたばかりで、翌年、民国36年(1947)の二二八事変前後、国民政府軍が台湾に入った、日本が中国に侵略した事もあり、中国人は日本人をひどく恨んでいた。夫は、愛子の身分が暴露し、これらの着物が没収され、さらに災いを招かぬよう、事前に着物やドレス10枚を大きな水瓶にしまい、それを裏庭にある林の中に埋めた。このかいあって着物やドレスが残っている。

当時、夫の父は林園老街(林仔邊)で漢方薬屋を営業していた。店の名前は『黄鳳安』といい、街村にある2階建ての建物であった。壁に彩色した製図があり、地元で一番大きな住宅である。通りに面した正面では薬屋を営業し、中庭を隔てて、後ろが家となっていた。敷地の一番奥は裏庭である。夫の父は、考えがかなり保守的で厳しかった。彼女に外出をで許さなかった。23歳の彼女は男と女一人ずつを育ていたが、門を出て人前に出ることができなく、一日中、子供と一緒に裏庭で過ごすという歳月を長くおくらなければならなかった。

◎ 言葉を覚え、対人関係をはぐくみ、台湾の人の教育活動に邁進する

愛子は台湾に来たばかりの時、知った人もなく、日本語しか分からなかった、人と話をすることができなかった。たとえ夫が英語や日本語、さらに中国語や台湾語などの言語に精通していても、愛子は台湾語が話せなく、子供も日本語で育てるしかなかった。しかし、子供達には仲間がおり、すぐ台湾語を覚えた、子供達は、むしろ彼女の日本語を理解できなくなり、彼女はとても心苦しい日々をおくった。このような状況で、彼女は台湾語を習い始め、後に自分の子供と相談することができるようになっている。

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****** ▼ 追記記事 ▼ ******

愛子は日本で看護および保健の勉強をしていた。子供がだんだん大きくなり、夫の郷里で看護活動をしたり、婦女に保健に関する常識を教え始め、人と接触するようになった。夫の振賢は地方において傑出した人物であったので、当時の林園郷郷長劉柏泉は彼を郷役所の秘書に任命した。当時、公務員は給料が少なくかった。一方、対人関係は広くならざるをえず、婚礼への招待と香典に対処すると、生計は火の車であった。愛子は台湾語が話せないので就職が難しかった。そこで愛子はウェディングドレスと化粧に合うと思い、日本で美容化粧の研修を受けた。研修終了後、台湾に戻った後、ウェディングドレスの店を営業した。店を開いたことで、人と接触するようになり、愛子はだんだん人々と誼を結ぶようになった。そして初めてこの日本籍の花嫁は、台湾の人の深い人情味を体験した。

彼女、普段は家で日本語を教えている。生徒には各年齢層の人がいる。華道、美容、手芸が好きである。また、美加華道協会の林月鳳さんを義理の娘に認めた。愛子は体が丈夫だし、生活も充実し、各クラブや協会活動にも参加している、彼女にとって最も記念すべきできごとは高雄市で開いたドレスショーに、台湾のおじいさんやおばあさんと自分が結婚式に着た日本の着物で参加したことだ。足どりが軽くて真情が表れていた。一心に歩いてきた一歩一歩は、ただ愛のために生きると言う、堅く意志に支えられたラブストーリである。

◎ 台湾を深く愛し、定住を捨てがたい

今年はもうすぐ80歳になる泉愛子。外国籍花嫁の開祖と言われる。息子は日本の大阪大学に進学、卒業後日本に定住し、貿易に関しての仕事を従事している。娘も日本に勉強した後、日本人と結婚し、名古屋に定住している。連れ合いは3年前に亡くなったが、愛子は子供と共に日本に住むことはなかった。現在はやはり『黄鳳安』の、赤い瓦ぶきの古い家に定住している。古巣に楽しんで住んでいる。泉愛子は毎年夏には飛行機で日本に行き、避暑したり、子供に会ったりしている。息子が彼女に、台湾に戻らないでくれと言ったこともあった。

でも、彼女はもとの住んでいた―林園を思い出した。夫との愛を育んだ家を思い返し、「一日の夫妻は百日の恩、百日の恩情は海のように深い」と感じて、捨てることができなかった。その上、隣近所は毎日、人の家を回って観談する仲である。甘く芳しい果物、おいしい食べ物とお菓子を楽しみ、特に、台湾の特別な味の果物を彼女は大好きである。平常、彼女は華道、手芸、読書、教会の活動を参加することが好きで、たまに、泳ぎに行く。彼女の体の調子が少し悪かったら、隣近所が車で医者に見せるなどする。彼女が心から捨てがたいのはこの濃い「台湾の人情味」である。

 彼女が大事にしているのは、結婚式で花嫁の着物である。これは全て手作りで、赤い絹織物に、日本人が一番好きな菊の図案を縫い取り、市場で買えないものである。愛子はそれを宝物として、片時も手放すことなく、常にそれをながめたり着たりしている。それを着て当時の様子を思い出し気づかないうちに寝付いた。愛子は非常に肯定を表し、台湾に嫁いできたのはもう60年になり、台湾が好きで、文句を言わず、自分は本物の台湾人だと思っており、日本人と思っていない。

テーマ:「生きている」ということ - ジャンル:心と身体

*** COMMENT ***

NO TITLE

ヤブーさん

誤解になりました~!!!^^
この翻訳者が僕じゃない~!!!
この記事はネートーで発見した

僕の日本語がまだ上手じゃない

NO TITLE

>>ライトさん
ああ、そうでしたか。^^j
でも、お忙しいところよく見つけてくださいました。
私の漢語の能力は、ライトさんの日本語にはとても及びません。


この話と逆に、戦後台湾から日本人男性と共に日本に来て、
遂には日本人となった台湾女性も多いんですね。


本当に台湾人と日本人は、宇宙に漂う二枚の花弁のように、
儚く寄り添って・・・。

http://www.youtube.com/watch?v=tL-Ux4rgioc

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