藪の眼には涙もでない

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日本過去是侵略國家暑・? 田母神俊雄將軍著 ( 前日本空軍總司令 )

日本過去是侵略國家暑・? 田母神俊雄將軍著 ( 前日本空軍總司令 )

美軍現在依照美日安保條約, 正駐留在日本國內. 而這是基於日美兩國同意的條約, 不能講是美軍入侵日本. 雖然日本被批評在二次大戰侵略中國和朝鮮半島, 但是其實日本軍隊當時駐軍這些國家也是因為條約的事實, 卻意外地不為人所知.

日本在19 世紀的後半, 並不是沒有得到朝鮮和中國的同意, 就出兵這兩個國家.

雖然現在中國政府堅持是日本侵略中國, 不過我國 ( 日本國 ) 當時是因為甲午戰爭以及日俄戰爭, 從中國得到國際法上合法的權益. 而日本國為了保護這些權益, 基於戰後簽定的條約 而出兵. 對於這點, 也許有人會講, 用壓力無理地逼其他國家簽訂的條約是無效的.

但是從古到今, 完全沒有壓力的條約, 其實是不存在的.

二次大戰之前, 中國當時傷U介石領導的執政黨, 常常進行恐怖活動,不斷的對在中國的日本人進行大規模的暴動和殺人的暴行. 這就好像現在, 如果日本自衛隊對於美軍的?田基地和須賀基地 駐留的美軍以及美軍的家人暴力攻書B, 甚至殺害, 是完全無法被允許的事.

對於中國當時的不斷挑釁, 日本政府當時是非常地忍耐, 想要追求和平, 但是卻被傷U介石政府背叛. 事實上傷U介石政府當時受到共產國際的影響, ( 註 : 受到傷U介石在西安事變, 被共產黨恕忠ヒ, 被迫國共合作的影響 )

1936 年 的第二次國共合作, 當時作為共產國際觸角--毛澤東領導的的中國共產黨游書B隊, 有很多人因此加入國民黨.

當時共產國際的目的, 是讓國民黨領導的中國軍隊和日軍作戰, 消耗兩軍的戰力, 最後讓
毛澤東領導的中國共產黨統治中國.

面對當時國民黨政府不斷的挑釁, 日本政府終於忍耐不住, 在1937 年8 月15 日, 日本近衛文磨?閣發表聲明, 為了讓傷U介石政府反省, 將採取斷然措施, 報復中國軍隊的暴行. 而我日本國是被傷U介石署s進日中戰爭的被害者.

所゚外, 雖然日本長期被懷疑是犯下東北軍閥張作霖暗殺的主要嫌犯, 但是 近年來, 前蘇聯情報單位的資料不斷被發現. 至少這個案子, 現在也不能斷定是日本軍隊所為.

根據以下的幾本書 :

1 : 毛澤東:鮮為人知的故事 張戎著 講談社出版

2 : 大東亞戰爭肯定論 黃文雄著 WAC 出版

3 : 日本 ! 磨練歷史能力所・! 櫻井 良子主編, 文藝春秋出版

東北軍閥張作霖暗殺的主謀是共產國際的說法, 得到很有力的證明.

此外, 至今一直被認為是日本侵略中國證據的 1937 年7 月7 日 的廬溝橋事件, 但是在東京裁判當時, 中國共產黨的劉少奇當時舉行記者會上作證表示, 策畫廬溝橋事件的是中國共產黨, 而當時廬溝橋事件的指揮官就是我 !

( 大東亞解放??( 岩間弘著、岩間書店出版) )

如果日本真的是侵略國家, 那麼我想問: 當時二次大戰之前世界所有的列強, 暑]一個不是侵略國家 ?

雖然我不是說, 因為其他的國家這樣作, 所以日本這樣作就是對的. 但是 如果說只有日本是侵略國家, 並不合理.

二次大戰之前, 當時日本國想要在滿洲, 朝鮮半島, 台灣, 進行和日本本土一樣 的開發工作, 當時的列強, 準備把殖民地內地化的只有日本.

日本國當時與其它列強國家比較, 可以說是進行穩健的殖民統治.

滿州國政府成立當時的 1932年1月, 總人口是三千萬, 此後每年以一百萬的數目不斷加.

到了1945 年終戰, 已經加到五千萬人. 為何滿洲的人口會爆炸性地加所・?

正因為滿洲治安良好, 生活富足的關係. 如果是因為侵略的話, 人口不可能會集中.

而在短短十五年以內, 由於日本政府的統治, 滿洲從只有農業變成有活力的工業化國家.

而根據當時的朝鮮總督府統計年鑑, 朝鮮半島在日本的 35 年統治中, 人口從一千三百萬加快要一倍到兩千五百萬.

這可以說是日本統治朝鮮富足和治安良好的證據. 而在戰後的日本, 日本被認為破壞滿州和朝鮮半島的和平, 但是實際上, 由於當年日本政府和日軍的努力, 讓當地人民從暴政下被解放, 並且提高了他們的生活水準.

日本國當年在滿洲, 朝鮮半島和台灣, 都設立了許多學校, 努力教育當地的人民. 也留下了許多道路, 發電廠, 水管等等基礎設施建設, 所゚外, 1924 年日本在朝鮮設立京城帝國大學, 1928 年在台灣設立台北帝國大學.

日本政府從明治維新以後, 一共設立了九個帝?大學, 其中京城帝國大學是第六個, 台北帝國大學是第七個. 而日本政府是等到 1931 年才設立第八位的大阪帝國大學, 1939 年才設立名古屋帝國大學. 也就是說, 日本政府竟然在日本國的大阪和名古屋之前, 先在朝鮮和台灣設立大學.

此外, 日本政府允許朝鮮人和中國人進入陸軍士官學校. 例如, 二次戰後在馬尼拉軍事法庭 宣判死刑的朝鮮人洪思翊陸軍中將, 他就是陸軍士官學校的第二十六期生.

和在琉黃島留下勇將美名的栗林忠道是同期生. 而晚洪思翊陸軍中將一期的金錫源上校.

也是朝鮮人. 他在日中戰爭時, 率領一千名日本兵, 向自古以來一直迫害朝鮮的前宗主國中國攻書B. 他也因為戰功彪炳, 得到 天皇陛下所賜的金賜勳章. 而他也並沒有改日本名.

而中國的傷U介石, 也是日本的陸軍士官學校畢業, 當時曾經在日本新潟的部隊受訓. 而他的參謀何應欽, 則是晚他一期的學生. (附註;可說真的,蒋介石不是日本的陸軍士官學校畢業的.他偽造學歷了.這篇文章是ヤブー寫的)

朝鮮李王朝的最後一位皇太子李垠, 也是陸軍士官學校第二十九期畢業生.

李垠殿下是十歲的時候, 以人質的身処ヘ來到日本. 但是日本政府對他非常照顧, 他先從皇室成員就讀的學習院大學畢業後, 再從陸軍士官學校畢業.

後來他榮升到日本陸軍中將. 李垠殿下的夫人, 是日本的 梨本宮方子妃殿下, 渚D也曾是 昭和天皇的皇后候選人, 有高貴的出身. 如果日本政府真的要消滅李王朝, 為何還要把尊貴地梨本宮方子妃殿下嫁給李垠殿下所・? 同樣地, 宮內厅在 1930 年替兩人建了新房, 也就是現在的赤坂王子飯店別館.

所゚外, 清朝末代皇帝 溥儀的弟弟 溥傑殿下的所゚一半, 則是日本貴族嵯峨家的 嵯峨浩妃殿下.

和當時其它列強作比較, 日本的用心和其它列強的統治完全不同.

比如說, 英國雖然殖民印度, 但是卻沒有給予印度人受教育的機會, 也沒有給印度人進如英國 軍校的機會. 當然英國皇室更不會把自己的女性成員, 嫁給印度的貴族. 而法國, 荷蘭, 美國等國家 的作法也是一樣的.

所゚一方面, 日本從二次大戰前就主張五族共和, 主張讓大和、朝鮮、漢、滿州、蒙古等各民族, 能夠和平友好地相處. 考慮到當時種族藷剋・ 這可以說是畫時代的主張.

在第一次大戰候的巴黎和談, 當時日本主張廢除種族藷剋・ 美國和英國還把 日本的主張當成是笑話. 但是看看現在的世界, 不就是變成和當時日本的主張一樣的暑・?

再往前看, 中國的清朝在1900 年義和團事件後, 被迫進行善後處理, 在 1901 年, 和包括日本在內的十一個國家, 簽定了義和團事件最終議定書 ( 辛丑和約 ).

因此日本國獲得了在中國駐軍的權利, 並且派了六百名的士兵前往中國.

( 註 : 根據 :廬溝橋事件的研究 秦郁彥著, 東京大學出版會出版 )

而在 1915 年, 經過和袁世凱政府四個月的交涉, 加上中國方面的意見, 雙方同意了所謂的對華 二十一 條的要求.

雖然有人講這是日本對中國侵略的開始. 但是我認為比較當時列強對於殖民地支配的一般國際常識來說, 並不是那麼奇怪的事情.

而中國也曾經一度完全批准這個條約.

但是四年後的 1919 年, 在巴黎和會中, 被允許列席的中國, 在美國支持下, 表達了對對華21 條條約的不滿.

即使如此, 英國和法國等等外國, 當時仍然是支持日本的意見的.

( 註 : 從日本史看日本人 昭和篇, 渡部昇一著, 祥傳社出版 )

此外, 當時在中國的日本軍隊的行動, 都得到傷U介石領導的國民黨的同意.

而從 1901 年被派到北京的日本軍隊, 到了三十六年後的廬溝橋事件當時, 也不過只有五千六百人. (註 : 廬溝橋事件的研究 秦郁彥著, 東京大學出版會出版 )

那時在北京附近, 有幾十萬的國民黨軍隊, 可以說日本軍隊在北京的人數, 當時距離有能力侵略中國, 還有很遠的一段距離. 當時日本國的幣原喜重郎外務大臣 (外交部長 )

所象徵的對中和平外交, 是日本國的基本方針, 這個方針從當時到現在都沒有改變.

現在有的日本人認為, 日本為了侵略中國和朝鮮半島, 進行日美戰爭失敗, 造成三百萬日本人犧牲, 是無法彌補的錯誤.

其實當時美國, 為了要把日本引入戰爭, 故意設下陷井的新事實, 也已經被發現. 事實上, 美國當時也受到共產國際的影響.

美國當時有一処ヘ叫作威諾那檔案 ( VENONA PROJECT ) 的正式公文.

而這個公文也出現在美國國家安全局 ( NSA, National Security Agency ) 的網頁上.

雖然這個檔案內容很多, 而在 2006 年五月正論雜誌, ( 平成18 年5 月號 ), 當時

青山學院大學的福井助教授, 也對這処ヘ檔案作了大概地介紹.

所謂威諾那檔案 ( VENONA PROJECT : http://en.wikipedia.org/wiki/Venona ), 就是美國情報機關對共產國際和他們在美國的間諜,

從1940 到1948 年的通信監視紀錄的整理.

一開始, 由於蘇聯每使用一次密碼就更換一次, 美國情報機關無法解讀.

所以美國等到 1943 年, 才開始解讀. 令人驚訝的是, 經過了三十七年, 一直到雷根前總統在 1980 年上台之前, 才整個解讀完成.

不過, 由於當時美蘇冷戰的關係, 美國把這個檔案當成機密, 並沒有公開.

等到冷戰結束後的 1995 年, 美國政府才公開檔案的內容.

威諾那檔案顯示, 1933 年上台的美國羅斯福政府裡面,

( Franklin Delano Roosevelt, January 30, 1882 – April 12, 1945)

一共有三百個共產國際的間諜. 其中甚至包括當時的高官, 財政部的次長 哈利懷特 ( Harry Dexter White : http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Dexter_White ).

他就是被認為是後來日美開戰之前, 寫下對日最後通牒的人.

他透過羅斯福總統好友, 當時美國財政部長摩根索, ( Henry Morgenthau, Jr. , 1891-1967 ),

影響羅斯福總統, 把日本逼進日美戰爭. 可惜的是, 當時的羅斯福總統, 對於共產主義的恐怖缺乏認識, 等於是透過哈利. 懷特, 間接地接下共產國際的工作, 派遣飛虎隊 ( Flying Tigers ) , 秘密支援當時對日作戰中的中國傷U介石政府.

所以事實上, 在珍珠港事變一個半月前, 美國在中國大陸, 事實上已經開始了秘密地空中攻書B. 由於羅斯福總統在當選前有向美國人民約定, 不會發動戰爭. 因此如果美國想對日本開戰, 無論如何, 必須引誘日本對美國 進行攻書B. 而日本也中了羅斯福總統的計, 對珍珠港發動攻書B.

由此可見, 日美戰爭是可以避免的暑・?

即使日本接受美國的最後通牒, 短期內, 也許可以避免日美戰爭爆發, 但是考慮當時弱肉強食的國際情勢, 不難想像, 美國一定會接下來有第二個第三個要求.

結果, 很可能我們日本人, 現在是生活在白人國家的殖民地.

文明的工具, 比如說是汽車和洗衣機, 電腦等等, 就算放著不管, 隨著歷史的發展, 早晚會有人作出來. 但是人類歷史中支配和被支配的關係, 只能靠戰爭來解決.

強者是不可能讓步的. 不願意戰鬥的人, 只能接受被支配的命運.

而在大東亞戰爭後, 許多的亞洲, 非洲國家, 從白人國家的統治下解放, 而種族平等的世界來臨, 國家之間的問題也可以透過對話來解決.

而這也是因為, 日本國曾經打過日俄戰爭和大東亞戰爭的關係.

如果日本當年沒有參加大東亞戰爭, 現在這樣的種族平等的世界, 可能還要再一百或兩百年才會到來.

因此, 我們日本人對於那些為了日本國奮戰的先人, 以及那些為國 犧牲生命的英靈, 必須表示感謝. 因為他們的犧牲, 我們才能享受 現在富足的生活. 所゚一方面, 也有日本人稱大東亞戰爭是愚笨的戰爭,他們認為就算日本沒有打過打東亞戰爭, 日本一樣可以建立現在這樣地 和平和富足的社會. 而指揮大東亞戰爭的日本高層, 是多麼欠缺智慧.

他們發動不必要的戰爭, 造成許許多多無辜日本民女I犧牲.

但是當我們回顧人類的歷史, 並不能這麼簡單來解釋. 即使是現在, 要推翻已經決定好的國際關係, 是非常困難的事. 由於日美安保條約, 美國在日本的首都附近, 有很大的軍事基地. 就算日本想去要回來, 也不會簡單就達成目標. 日本國和俄羅斯的北方四島問題也是一樣, 俄羅斯已經超過六十年非法処・フ這些小島. 而竹島事實上, 也在韓國的統治之下.

東京法庭把戰爭的責任全部推給日本. 這種思想控制, 即使是戰後六十三年, 2008 年的現在, 仍然困惑著我們日本人.

許多日本人仍然認為, 日本軍力如果強, 必定會侵略其它國家, 因此必須儘量讓自衛隊難以行動. 所以日本自衛隊無法擔任警戒的任務, 也沒障Q法去海外行使集團自衛權, 對於武器的使用也有很多限制, 更不能擁有攻書B性的武器.

和外國的軍隊相比, 自衛隊可以說是受到許多限制恕衷Z, 根本無法活動. 如果不把日本從這種 思想控制中解救出來, 日本永遠不能用自己的力量防衛自己, 只能靠美國來防衛.

如果日本靠美國防衛, 日本的美國化會更快. 日本不管是經濟, 金融, 商業習慣, 勞工雇用, 司法等各方面, 都已經和美國的制度很相近. 而日本的傳統文化, 也不斷地被破壞. 難道不能講日本現在是在進行文化大革命暑・?

可是日本國民, 現在和二十年前相比, 有過著比較安心的生活暑・? 日本國有朝向好的方向前暑・?

我並不是要否定日美同盟. 為了亞洲的安定, 良好的日美關係是有必要的.

但是我希望這是一種良好地互助式地親子關係. 現在這種小孩子一直依家長那種的日美關係, 我認為有必要改善. 建立良好的國防體系, 不但可以預防可能對日本的侵略, 也是日本國外交的後盾.

對於外國來講, 建立良好的國防體系, 是很普通也容易了解的事情, 但是在日本國, 一般的日本民女ネ並不了解.

縣在仍然有許多日本人認為, 在大東亞戰爭中, 許多亞洲國家受到日本的侵略, 承受了很大的苦難.

但是我們必須了解, 許多亞洲國家, 對於大東亞戰爭都有正面的評價.

在泰國, 緬甸, 印度, 新加坡, 印尼, 許多當地人都對於當年進行大東亞戰爭的日本, 有很高的評價. 我們日本人也必須知道, 有許多根本沒有看過日軍的人, 會亂說日本軍對的暴行.

由許多外國人的作證可以證明, 日本軍隊的軍紀, 比起其它國家, 是多麼的嚴格, 指控日本國是侵略國家, 就是一個錯誤.

日本國是一個從古到今有優良傳統的國家. 我們日本人必須對我國的歷史敢到驕傲.

一般人除非是被灌輸特別的思想, 愛自己的故鄉和自己出生的國家是很自然的事情.

而只要日本人認真的去看日本的歷史, 就會了解這個國家過去所做的事有多偉大.

完全沒有說勝ス的必要. 雖然個別事件有被批評的地方, 不過即使現在的先進國家中, 也會發生殺人等暴行是一樣的.


我們日本人一定要找回日本過去光輝的歷史. 忘記歷史的國家, 只會往衰退的方向前進.



長崎県知事が媚中発言の撤回へ (台湾は日本の生命線)のコメントより転載

****** ▼ 追記記事 ▼ ******

アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。

 日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミン
テルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

 1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。

 日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。

 満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9 つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6 番目、台北帝国大学は7 番目に造られた。

 その後8 番目が1931 年の大阪帝国大学、9 番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6 期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1 期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

 
 李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。

 一方日本は第2 次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1 次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

 時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局( N S A )のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2 の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。

 当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。

 日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。

 しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。

 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも
親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

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