「生きる」と言う言葉の語源は「息」と同じそうだ。この息をするという動作は自律神経と随意神経の二重支配を受けており、私たち人間は無意識にも呼吸できるし、意識的にも呼吸ができる。語源が同じだからかという理由でもあるまいが、人間が生きることも、本能と文化という二重支配を受けているようにも思える。つまり私たちは食欲・性欲・睡眠欲・生存欲といった動物的本能レベルで生きることと同時に、生活しそれを味わい、意味付けることも欲している。

 他の生物の最大使命は種族保存であるともいえるが、人間は種族保存にすら、何らかの意味付けをせずにはいられない。子供ができることをよく「子宝」に恵まれると表現する。万葉の時代から「白金も黄金も玉も何せむにまされる宝子に如かめやも」と謡われたように、おそらく私たちの先祖は、文字を得るはるか以前からそのように考えていたのだろう。こうした考え方が今も私たちのなかに生きているのは、幸か不幸か小児医療に携わっているとよくわかる。

 しかし日本全体で観るならば、ここ最近は出生率が1.2を切るまでに落ちているのは何故だろう。もちろん出生率の低下自体は世界的な傾向で、近代化・工業化に伴って人口転換が起こることは知られている。すなわち保健医療の発達と子ども数の減少のタイムラグから多くの国は、多産多死→多産少死→少産少死の過程をたどる。多産少死の過程で「ベビーブーム」と呼ばれる人口爆発現象が生ずる。問題は欧米のいわゆる先進国では、出生率減少の過程で1980年代に反転して高くなった国も多いのに対し、日本はなお低下を続けたこと。さらに1990年代前半以降は多くの西欧社会では再度の出生率の低下が生じ、また最近はさらに回復する傾向にあるのに日本はさらに低下しているということである。

 欧米諸国で人口減少の途中で反転した理由については、福祉国家的な託児所の整備、企業の支援制度や男女の育児分担、子育て世代への財政的支援・税制優遇によるものという仮説がある。加えて婚姻と出産との分離(婚外子)の社会認知が進んだことも挙げられた。しかし財政的制限による福祉国家政策の見直しが、1990年代での再度の低下をもたらしたと説明されている。現在日本の少子化対策は主にこうした欧米諸国の現象とそれに対する仮説を元に行われていることが多い。つまり政治家・官僚や識者の多くが女性が子供を生まないのをお金と手間の問題と考え、それに対する負担を軽くすることで出生率を増やそうとしている。

 しかし私の知る限りにおいて、米国は少し異なる対策を取ったようだ。1980年に大統領になった共和党のレーガンは、家庭・教育・道徳の崩壊に対して1983年に大胆な教育改革政策を含めた「危機に立つ国家」を発表し伝統的価値の復興・保守政策を打ち出した。つまり「伝統的家庭の価値観を社会に取り戻す」ことを政治指針のトップにしたのだ。この方針は民主党のクリントンの時にも掲げられ、現在の共和党ブッシュ大統領にまで引き継がれている。周知のごとくアメリカは家庭・学校・社会崩壊の先進国である。子供の3分の1は未婚の母から生まれ、子供が成人するまでに40パーセントの親が離婚する。17歳人口の約13%は、機能的識字能力(社会的自立に必要な読み書き能力)に欠けており、この時の指針で見習うべきモデルとされたのが、日本の教育であった。当時、日本の中高生の学力は世界最高水準にあり、それに基づく高い技術力と労働者の質が、日本の経済的繁栄をもたらしていると見なされた。

 米国の政治指針が功を奏したのかは簡単には判断できないが、それまで1.7程度であった出生率は徐々に増加して1990年ころからほぼ2.0を超えた状態が続いている。それに対して当時日本では米国に比べてはるかに家庭も学校も崩壊していなかったのに、ゆとり教育、個性教育、子供の自主性教育、ジェンダフリー教育といったものを導入し、逆に学力低下、学級崩壊、家庭崩壊化が目立つようになり、おまけに少子化も進んでしまった。

 米国のネオコンの考え方では、大衆化した知識人が環境運動、人権運動、フェニミズム、平和運動を引き起こし、国家の文化的資源の過剰消費と国家統合の混乱をもたらしたという立場をとる。今でも日本は米国に比して、家庭や教育の育つ土壌がはるかに豊かで安全な国であるが、しばしばアメリカの悪い部分を追いかける国策的な過ちと、「進歩的文化人」やいわゆる「サヨク」らの言論活動などにより、日本の文化的資源も過剰消費され続け社会は混乱しつつある。

 アメリカが文化保守主義を改革の精神に掲げたのに比して、日本の現政権の改革は文化破壊主義とも感じられる。自分たちの文化に価値と未来を感じられない人間が、果たして子供を生み未来を託そうとするであろうか。私たちは生きて伝えたいものがあり、自分たちは不完全であるがいつかは抱いている理想が実現するかもしれない、そう思うからこそ子供を宝として大切にするのだ。

 3人の息子さんを育てあげた元大学教授のある患者さんが昔こう述べておられた。
「僕はね、自分たち夫婦が乞食のような生活をしてでもいいから、子供らにはちゃんとした教育を受けさせたかった。」
その言葉の中には、子育てはお金や苦労に代えがたい「幸せ」であるという固い信念が感じられた。確かに現代は学問をしていい大学を出れば安定した生活ができる社会ではない。しかし何十年か前だって「大学は出たけれど」という映画があったように、大学卒業即収入や生活の安定ではなかった時代があった。その親御さんはおそらくご自分の子供に「学問は楽しい」ということを伝えたかったのだろう。

 ここ数年勝ち組負け組みなどと、人生のすべてを収入の大小だけで分ける風潮が一部に見られる。しかし私はビルゲイツもホリエモンも決して幸せだとは思わない。夢を追うのが悪いわけではない。もちろんお金儲けや地位を夢にすることもあるだろう。しかし殆どの人の夢は完全にはかなわないし、勝つことだけを目的にするならば人は決して幸福にはなれない。夢が破れても帰るところがあれば幸せと感じる場合だってある。

 山上憶良が生きた時代は病気や貧困が多く、今日よりもはるかに子供を育てることが困難な時代であった。それにもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ「子は宝」と言い切った祖先がおり、それは確かに私たちの心にも伝えられている。今当時とは比べようもない自由や金銭そして衣食住を得たが、いまだ彼ら以上の幸福は得られていないのかもしれない。

 少子化問題や子育てを考える場合、物質や金銭的に支援するだけでなく自分たちの過去の暮らしやこころを振り返ることが本当は急がば回れだ。しかし止まることのない改革のスピードは速まり、文化保守主義を掲げる政治家はもういない。政治とは関係のないところで、よきこころがいたる所に残っていることを祈るばかりである。


banner_04.gif


FC2blog テーマ:子育て・教育 - ジャンル:学校・教育

【2005/10/16 21:12】 | 雑感 トラックバック(1) |


にゃ
最近メールも全く返さず電話もしていなかったら今朝、父親から「生きてるのか」と心配して電話がありました。
〜にゃ。とかのんきな語尾でしゃべっている21才のにゃも親不孝なことを考えた時期もありましたが
今はちゃんと木鶏のように淡々とやっていますよ(^^)
私は本当に家族に恵まれ宝のように育てられたと実感しています。ヤブーさん、とても長くて読むのに時間かかったけど(笑)、
素敵な記事でした。


ヤブー(管理人)
にゃ様

そうでしたか。いや鬱だったのですかね。
若いときには、生のエネルギーが過剰で逆の死に憧たりもしますしね。
人間はいろいろと合理的に行かないから面白いんですけどね。
あんまり誉めてくれる人は居なかったんですが、一人にでも誉められるとたまにまじめぶって書いた甲斐がありました。
「独断と偏見」のブログの福田先生の記事に刺激を受けて書いたんですがね。
福田先生が引いていたある僧侶の「乳児から肌を離すな。幼児から手を離すな。少年から目を離すな。青年から心を離すな。」は素敵な言葉だと思いました。

淡々と生きてください。


コメントを閉じる▲